築城年代は定かではないが宝治年間(1247年〜1249年)に安東盛親によって築かれたと云われる。
正平年間(1346年〜1370年)には源良尹が館を修築して住んだと云われ、康正2年(1456年)蛎崎城主蛎崎蔵人信純によって新田義純(北部王家)は暗殺され、蛎崎蔵人の乱が起こる。
永禄年間(1558年〜1570年)頃には九州の菊池一族で越中国阿尾城主であった菊池武勝の弟菊池豊後守正義が南部氏を頼ってきた。正義は鶴ヶ崎順法寺城に居住したが、その子正興は田名部館を修築して居館とした。
鶴ヶ崎順法寺城は城ヶ沢の自衛隊大湊航空隊の敷地内に築かれていたという。 正確な場所は不明だが、かつては土塁や堀も残されていたという。
現在は城ヶ沢地区集会所の隣にある神明宮と北の小学校跡地の間に鶴崎山順法寺城趾の標柱と案内板が設置されている。案内板には由来や規模などが記されているようであるが、劣化していて判読は困難である。