築城年代は定かではないが建武元年(1334年)頃に武田修理大夫信義によって築かれたと云われる。
武田信義は八戸根城南部師氏の家臣で、宇曽利郷の目代を命じられ蛎崎城を築いた。信義以降、五郎信晨、信吉、治部丞信道、五郎蔵人信純と続いた。
康正2年(1456年)蛎崎蔵人信純は順法寺城主新田義純を暗殺して南部氏に叛き、安東氏や蝦夷などと結んで南部氏を攻めた。これに対し南部氏は康正3年(1457年)朝廷の許可を得て南部(八戸)政経に蔵人討伐を命じた。政経が大軍を率いて攻め入ると反乱は鎮圧され、信純は蝦夷が島へ逃れた。この蛎崎蔵人が松前氏の祖となる武田信広という説もある。
蛎崎城は旧蛎崎小学校の北背後に聳える標高60m程の山に築かれている。 現在は錦帯城公園として登山道が整備されている。
南東へ張り出した尾根の先端頂部に築かれており、「錦帯城主蛎崎蔵人供養塔」が祀られている。北西側の尾根には林道が通っており、現状では堀切などは見あたらないが、主郭部一帯は切岸加工されており、一部に土塁らしき土盛りが残る。
『日本城郭大系』や『青森県の中世城館』の図面では東西二郭を描き、旧蛎崎小学校の辺りを西の曲輪としている。どちらの図面も山上の遺構は描かれていないようである。
旧蛎崎小学校前に案内板が設置されている。その脇から登山道が付いており、道標に従って登っていけば主郭に至る。