慶長5年(1600年)上杉景勝によって築かれた。 慶長3年(1598年)上杉景勝は越後国春日より会津に転封となり黒川城へと入ったが、ここは小田山に近く大砲による砲撃に弱い為、新城を築く事にしたと云う。この予見は正しく戊辰戦争では黒川城へ小田山より砲撃が行われた。
当初候補地として北田城が挙げられたが水害の危険性から神指城が築かれたという。 築城は直江兼続が担当し3月18日より本丸、5月10日より二の丸の工事が昼夜兼行で行われたが、完成を見る事無く工事は中断された。これは徳川家康による上杉討伐の機運が高まり、それに対する備えとして国境の城の整備を進める為とされる。
結局、徳川家康による上杉討伐軍は石田三成の挙兵により中止され、上方へ戻った徳川軍と石田軍によって関ヶ原の合戦がおこり、戦後上杉氏は米沢に転封となったため、景勝は神指城には一度も入城しないまま米沢へ移った。
城は阿賀川の東岸にある平坦地に築かれた。現在は開墾され水田となっているが、本丸部分は土塁が残存し、二の丸土塁の一部も点在している。
神指城の案内板は本丸の北東にある高瀬の大木(ケヤキ)の所に設置されている。ここは二の丸の北東側の土塁である。
本丸は現在私有地として畑となっているが、北側にある入口には「私有地に付き、観光者以外の立ち入りを禁ず。生産物の採取を禁ず。地主」と書かれた看板が建つ。史跡見学者に配慮して頂いているのはとても有難い。