築城年代は定かではい。文亀年間(1501年〜1504年)頃に稗貫氏の家臣八木沢外記が亀ヶ森八幡館に居城を移したと云われ、これが亀ヶ森城である。
天文9年(1503年)没落した八木沢氏に変わって同じく稗貫氏の家臣亀ヶ森図書光広が城主となる。弘治3年(1557年)亀ヶ森図書が稗貫孫六郎為嗣に背いたため、稗貫氏の家臣槻木光治と矢沢治真に攻められたが、亀ヶ森図書は槻木光治を討ち取り稗貫氏を撃退した。
豊臣秀吉による奥州仕置きにより稗貫氏は滅亡するが、亀ヶ森氏は命脈を保ち、亀ヶ森玄蕃家衡は南部氏に七百石で仕えたという。
亀ヶ森城は中興寺の背後に聳える山に築かれている。中興寺の西の山に八幡神社が鎮座しており、その西の最高所が本丸とされるが、中興寺の南にある標高215mの山も城山で、ここにも遺構がある。
八幡神社のある山の遺構は西の最高所を中心に段曲輪があるのみである。
南の標高215mの山は山腹に二段の横堀があり、北から東側面を回って南へと続いている。二段の横堀は10m程の比高ほどあり、北には竪堀が続く。山頂部の曲輪は削平された部分と地山の部分が混在するが切岸はほとんどない。
中興寺は亀ヶ森氏の菩提寺である。
中興寺または八幡神社に駐車可能。
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