むさし・まつやまじょう

武蔵・松山城
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史跡指定
国指定史跡
  形態  
丘城(58m/40m)
  歴史  

築城年代は定かではないが、応永6年(1399年)上田友直により築かれたと云われる。 それ以前にも正慶2年・元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉の北条高時を攻めたおり、要害を構えたという。

天文6年(1537年)川越城を落とし勢いに乗る北条氏綱は上田正広の籠る松山城に侵攻したが落とすことはできず撤退した。 扇谷上杉氏は川越城奪回を目指して攻めるが、逆に北条氏康の夜襲により撃退され、さらに松山城をも奪われた。

しかし、上田朝直はすぐさま岩槻城主太田資正の協力を得て松山城を奪還。この時、本丸は太田資正の家臣広沢尾張守が守り朝直は二の丸に入った。 再度北条氏は松山城を攻め、この時朝直が北条方へと寝返り城は落城した。

永禄4年(1561年)上杉政虎が大軍を率いて攻め攻略し太田資正に預けた。政虎が関東から退くと再び北条氏が来襲するが、太田氏はこれを退ける。 しかし翌永禄5年(1562年)北条氏が侵攻、甲斐武田氏にも援軍を求め大軍で押し寄せた。 北条・武田連合軍は大軍をもって攻撃したが容易に落城せず、武田氏は金山衆を用いて地下に穴を掘る作戦にでるも失敗。連合軍は完全包囲で兵糧攻めし、なんとかこれを落とし再び上田朝直の居城となった。

天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では前田利家、上杉景勝等の大軍に囲まれ落城した。

徳川家康が関東に入部すると、三河国桜井城より(桜井)松平家広が一万石で入封するが、慶長6年(1601年)松平忠頼の時、遠江国浜松に転封となり、以後廃城となった。

  説明  
城址のすぐ背後まで宅地(ここも城域だったらしい)となっているものの、主要部は開発による破壊を免れ素晴らしい遺構が残っている。
城は市野川を背後に山頂の本丸から東の尾根に向かって二の丸、三の丸を配している。 各曲輪は深い空堀によって独立させ、土塁は余り用いられていない。
  城主  
上田氏,太田氏,松平家広,松平忠頼
 所在地 
埼玉県比企郡吉見町大字北吉見
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※距離はおおよその直線距離です。
海・川・山などの地形および交通手段は全く考慮していません。



最終訪問日
2007年5月
 縄張図 
現地案内板より
松山城縄張図

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