慶長5年(1600年)関ヶ原合戦において西軍に属した長束正家が陣を構えた。
長束正家(なつか/ながつか)は近江国水口岡山城十二万石の大名で、秀吉の五奉行の一人であった。関ヶ原合戦では南宮山東麓に布陣していたが、吉川広家が東軍に内通して動かなかったことから、合戦には殆ど参加していない。合戦後、水口岡山城へ退却したが、捕縛され切腹している。
長束正家陣は南宮山の東麓に置かれていた。空き地の入口に案内板が設置されているが、この場所は見つけるのが難しい。県道215号線を栗原山から北上していくと境野という集落がある。この集落に向かって北西方向に入っていく細い道を進み、最初の交差点を左へ曲がり西へ進んで行くとやがて未舗装道路になる。その先の空き地の入口に案内板がある。一本北の道が八幡神社に通じているので、それが目印か。