築城年代は定かではない。
『作陽誌』では小早川隆景が修築し福田勝昌、盛昌が守ったとする。
天正7年(1579年)毛利氏は医王山城や矢筈城への繋の城として桝形城を普請し、森脇春方らが在番し、医王山城への兵糧入れの拠点となった。
天正8年(1580年)に医王山城を破棄することになると、医王山城に籠もっていた湯原春綱や塩屋氏は桝形城へ、小川、福田氏は小田草城に在番することとなった。
天正12年正月には羽柴方の蜂須賀正勝、黒田孝高が毛利氏から桝形城を受け取っている。
桝形城は標高644.9mの桝形山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
主郭は山頂にあり北側に土塁が残り帯曲輪が囲繞する。山頂から東へ伸びた尾根に土塁囲みの段曲輪が続き、東端が曲輪I4となる。I4の北側はやや屈折する虎口形状があり、その脇には小さな土壇がある。土壇はI2にもあり、ここもI1の虎口下に位置する。
北尾根に続く曲輪II、IIIは概ね東側に土塁が付き、西側面には武者走りが北端まで続いている。曲輪II2には横矢掛けと思われる折れがある。北端尾根は二重か内側が一段深くなる堀切16で遮断している。
主郭から北へ続く尾根には小規模な段曲輪群IVがある。尾根先二段の曲輪は削平も良く土塁も付いているが、北端は堀切ではなく竪堀形状18があるのみである。
主郭から南へ続く尾根には尾根を幅広く遮断する堀切7があるが、その下方から曲輪群Vが続く。曲輪V1、V2は南端に土塁があり、堀切2は規模が大きい。
南西麓の新町に登山口があり、入口に道標や案内板が設置されている。車は未舗装林道の終点にも駐められるが、道が悪いので、新町コミュニティに駐めさせてもらった。
最寄り駅(直線距離)