長享元年(1487年)新田右馬頭泰国(仁田右馬頭)によって築かれたと云われる。
天文19年(1550年)新田氏は佐太神社の神主を兼帯していた廬山城主朝山越前守綱忠と佐太神領を巡って争いとなり、海老山城は落城したという。
海老山城は佐太神社の東方、長福寺の北東背後に聳える標高91mの山に築かれている。
主郭は山頂にあり、東西に二段で西がやや低く、淵は土塁状になっている。 主郭の東下には堀切があり、南山腹に掛けて連続竪堀を設けている。そこから東へ続く尾根には三条の堀切を設けて遮断している。一方西へ繋がる尾根は西端の尾根先端部までの間に五ヶ所程の堀切が確認できる。しかし、堀切自体は深く明瞭であるが、尾根筋には曲輪と呼ぶ程の平段遺構はなく、自然地形に近いものである。
登山道は南麓の長福寺にある(地図)。境内西側に新田氏の由緒書きとともに供養塔があり、その脇から山道が付いている。これを登れば主郭に達するが、西尾根の堀切へは道は付いていない。
登山道はそのまま東端の堀切から麓にあり加茂志神社へ降りてくることができるので、西尾根の遺構を見たければ登る際に見ておく方が良い。
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