延徳3年(1491年)伊勢宗瑞(北条早雲)によって築かれた。 小田原北条氏の祖、駿河国興国寺城主伊勢宗瑞は、堀越御所の内乱に付け込み堀越公方足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主になると韮山城を築いて居城を移した。 宗瑞は明応4年(1495年)相模国小田原城を奪い、小田原北条氏の祖となり、永正16年(1519年)韮山で没した。
天正18年(1590年)小田原北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐を迎え討つ為、山中城と韮山城を最前線として兵を集めた。 韮山城には北条氏政の弟氏規が城主となり兵三千余で豊臣勢四万余を迎え討った。 豊臣方の軍勢は上山田城、本立寺付城など周囲に付城を築いて包囲する。北条氏も天ヶ岳砦などに支城を築いて守りを固めこれに対抗した。山中城をはじめ、関東の諸城が攻略されるなか韮山城は落城せず、朝比奈泰勝を使者として開城を促し、氏規は開城し退去した。 この氏規の家系が江戸時代に河内国狭山に大名として続いた。
氏規が城を退くと徳川家康の家臣甲斐国浄古寺城主であった内藤信成が城主となったが、関ヶ原合戦の後、駿河国府中へ移封となり韮山城は廃城となった。
城は韮山高校と城池の間に南北に長い丘に築かれている。 韮山高校は御座敷と呼ばれここが館跡とされている。
南北に細長い丘陵は北から南に三の丸、権現曲輪、二の丸、本丸、塩蔵(南曲輪)と続いている。
三の丸は山上の中で最も広く周囲に高土塁が巡り、現在はテニスコートになっている。権現曲輪には神社が祀られ、南に土塁と堀切がある。そこからさらに高く成った所に二の丸がある。二の丸は低い土塁が巡り、南の本丸との間に堀切がある。本丸から塩蔵にかけて南北に伸び、北端に本丸、南端に塩蔵、その間は東西二段になった細長い地形が続いている。
南端にある塩蔵の遺構が面白く、土塁で囲んだ小さな穴蔵と外側にも土塁の付いた小郭がある。塩蔵はもとは硝煙蔵であろうか。本丸から天ヶ岳砦へ続く尾根には三条の堀切があり、その内の一条が現在の道路である。
城池の土手から三の丸に登る場所の北側に三の丸の堀が残されており、水が溜まっている。
城池の西側に駐車場があり、池の北西部に案内板及び登り口がある。
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