築城年代は定かではないが文治年間(1185年〜1190年)平田氏によって築かれたと云われる。 平田氏は文治4年(1188年)平田嘉貞が伊賀国平田邑より移って今井城に居住したのが始まりとされる。
平田氏は六代続いたが、観応元年・正平5年(1350年)北朝方の高師泰によって攻められ落城して滅亡、翌正平6年(1351年)には信濃国西那荘より佐々木兄弟が地頭として入部し、弟佐々木行連が都治氏を称し、兄佐々木祐直は川上の地頭として松山城に入り河上氏を称した。
大永元年(1521年)尼子経久が攻め入り都治氏は滅亡するが、その後、河上隆行が都治氏を再興する。
天文11年(1542年)には大内義隆に従って尼子氏を攻めたが敗北、永禄元年(1558年)には毛利氏に属し、天正19年(1591年)出雲国中那猪尾へ転封となり廃城となった。
城は南から北へ派生した尾根の先にあり、都治川が西から南へ流れをかえる地点にある。今井城とは都治川を挟んで相対する。
主郭は中央付近に井戸跡と思われる穴があり、南背後に土塁が残り、堀切で断ち切っている。北側にも一段削平地があり、nhkの無線中継施設が建つ。
登り口は二箇所、城山の西麓を南北に走る道路沿いに民家があり、その脇から山へ道が通じている。これを登った所に切通しがあり、ここから左(北方向)の竹薮を越えて行くと堀切へと出る。
もう一つは尾根の先端で橋の南詰の南東にある民家の東側にnttの無線中継施設への通じる道がある。これを登ると尾根先の曲輪に達する。
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