築城年代は定かではない。
天文・永禄年間(1532年〜1570年)頃の城主は長倉藤七(洞雲斎)で伊東氏四十八城の一つに数えられた。
天正5年(1577年)伊東義祐が島津に追われて豊後へ逃れるとき、財部城の落合民部少輔に阻まれたため、穂北城の長倉洞雲斎に助けられて米良を経て豊後へ落ちていった。
島津氏が日向に入った後は平田新左衛門宗張が城主となった。
穂北城は一ッ瀬川北岸にある台地の南端に築かれている。現在は一部が公園として整備されている。
穂北城は台地の南端に深い空堀で区画された群郭式山城で、現在曲輪2(西ノ城)が公園として整備されている。主郭は南端の大きな三つの曲輪群で、南東の曲輪1(榎ノ木城)、その西に曲輪2(西ノ城)、その北の曲輪3(中ノ城)から成る。
曲輪2と曲輪1との間は二重堀になっているが、西側は曲輪2に向かって登っていく道になっている。南端からは曲輪1へ続く道があり虎口へ繋がる。曲輪3の東端に曲輪1と繋がる土橋があり、曲輪1は土橋に虎口を開いている。
主郭部の北にある曲輪6,5,4はそれぞれ北に土塁を設け、南と北側に深い空堀が付いている。
公園の駐車場近くに無線塔が建っており、これを目指して行くのが良い。県道313号線から西へ入って行くと道標が出ている。(地図)