建武2年(1335年)新納時久によって築かれたと云われる。 新納氏は島津忠宗の四男時久が足利尊氏から新納院を与えられ新納氏を称したことに始まる。
新納氏が上京中に富山国長に城を奪われ、後に新納土持氏の所領となったが、長禄元年(1457年)土持景綱が伊東祐尭に敗れると伊東氏の所領となった。
伊東氏は野村蔵人佐を城主として伊東氏四十八城の一つに数えられたが、天正5年(157年)伊東氏は島津に敗れて豊後に逃走し、島津氏は山田有信を城主とした。
天正6年(1578年)大友宗麟の大軍は松山塁などに布陣して高城を包囲したが、城主山田有信はわずかな兵で島津の援軍がくるまで耐えた。島津義久も軍勢を率いて駆け付け、両軍は高城川で激突し、緒戦は大友軍が押し込んでいたが、次第に島津軍が優勢となり大友軍は敗走、島津の追撃にあい耳川に追い詰められ大敗した。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐では、羽柴秀長率いる二十万の大軍に攻められた。山田有信はわずかに千五百の兵で籠城して耐えたが、援軍に駆け付けた島津義久の軍勢は白根坂で秀長軍と戦い敗れ撤退、その後島津義久は秀長を経由して秀吉に降伏した。高城が開城したのは義久の降伏であった。
高城は切原川と小丸川の間にある台地から東へ半島状に伸びた丘陵の東端に築かれている。現在は城山公園として展望台などが整備されている。
主郭部は半島状に東に伸びた尾根の東端にあり、現在公園となっている。公園整備や駐車場により曲輪の形状は大きく変わっているようである。西尾根には車道が通っているが、この尾根は四条の堀切を設けて厳重に遮断していた。
東には高城を攻めたときの陣城である松山塁がある。宗麟原供養塔や北郷蔵人の墓、高城川合戦などの写真は松山塁を参照。
木城町役場の北側にある。車の場合、西側の台地から車道が付いており、本丸近くに駐車場がある。
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