文化7年(1810年)筑前国福岡藩によって築かれた。
天領である長崎における台場は、その設置時期によって、古台場(ふるだいば)・新台場(しんだいば)・増台場(ましだいば)に大別される。
古台場は承応2年(1652年)に大田尾・神崎台場・女神台場・白崎・高鉾島台場・長刀岩台場・陰ノ尾の七ヶ所に設けられ石火矢と大筒が据えられた。
新台場は文化5年(1808年)に女神台場・すす連・神崎台場・高鉾島台場・香焼島の五ヶ所に設けられた。
増台場は文化7年(1810年)神崎台場・魚見岳台場・高鉾島台場・長刀岩台場の四ヶ所に増設された。
文化5年(1808年)フェートン号事件が勃発する。オランダ国旗を掲げて偽装した一隻の軍艦が長崎港へ侵入し、出迎えにきたオランダ商館二人を拿捕してイギリス国旗を掲げた。フェートン号の艦長は拿捕したオランダ人を人質として水や食糧の補給を長崎奉行松平図書頭康英に要求した。康英はこの要求を拒んで隔年で長崎を警固していた佐賀藩と福岡藩そして大村藩に派兵してフェールトン号を追い払うように要請した。しかし、佐賀藩は経費節減のため独断で警備兵を百人余りに減らしていたことが判明。結局長崎奉行松平康英はイギリスの要求をのみ、その責任をとって自刃した。
この事件をきっかけとして国防意識が高まり、多くの台場が築かれた。