豊臣秀保(羽柴秀保)は豊臣秀吉の姉と三好吉房との間に生まれた人物で、豊臣秀次の弟にあたる。秀吉の弟豊臣秀長の養子となって家督を継ぎ、大和中納言と呼ばれた人物で、文禄の役の時、大和国郡山城主で百十万石の大名であった。
文禄の役では渡海していない。文禄4年(1595年)急死している。
大和中納言秀俊(豊臣秀保) 一万騎。
地図によっては「羽柴秀俊陣」とあるのが豊臣(羽柴)秀保陣である。
豊臣秀保陣は東西二郭ある複郭の陣である。特別史跡に指定された陣の中でも整備された陣であるが、あまり草刈りが行われていないようで、過去2回は藪の中を見学することとなったが、三度目にして非常に良く整備された状況に遭遇し、存分に見学することができた。
東の第一陣と呼ばれる部分が整備されており、方形に巡る石塁は南西に平入虎口、北西に枡形虎口を有する。石塁は南東が入り隅になっている。
西の第二陣は第一陣から畑を越えていったところにある。ここは広く石塁は途切れて残っている。畑の北の道路を進むと石塁があり、この部分に虎口がある。西側へ回り込むと横堀が南北に続いており、南へ進んでいくと南西の石垣に至る。この石垣部分にも横堀が付いている。
堀秀治陣の駐車場に駐めて歩いて行くのがよい。