木村重隆は重茲、重高、定光など多くの名が残る人物で文禄の役の時、越前国府中十二万石の大名であった。
文禄の役では渡海して戦功を挙げ、山城国淀城十八万石に加増転封となったが、文禄4年(1595年)秀次事件に関わって自刃している。
木村常陸之助(重隆) 三千五百騎。
木村重隆陣は加藤清正陣の南東、片桐且元陣の南西に位置する。
複郭の陣跡で、南東部にこの辺りの陣跡としては比較的高い石垣の遺構が残されている。上部は土塁によって区画され北西側にも虎口が開口しており、外側は土橋状のスロープがある。
片桐且元陣からそのまま谷を渡ってきたが、東側は荒廃した竹藪である。南東側の石垣遺構のすぐ外に細い農道があり、簡単にアクセスできるのだが、この道を南へ進んで帰路した所、堀秀治陣の入口まで戻ることとなってしまった。