長谷川秀一は越前国東郷十五万石の大名で、文禄の役では渡海して戦っている。秀一は文禄3年に朝鮮で病没、あるいは帰国後に病没したと云われ、無嗣断絶となっている。
長谷川秀一陣は木下利房陣と隣接して築かれている。
主郭は北西から南西に長い楕円形で北西側の半周ほどが高さ2m程の石塁によって築かれており、北西中央に平入虎口がある。虎口の西側は2m〜3m四方程の櫓台状となる。この主郭から北西方向に向かって段曲輪が続いているが、下の方は開墾、耕作破棄させた地形で何処までが遺構の範囲か不明。
木下利房陣から尾根続きで簡単にアクセスできる。