築城年代は定かではない。嬉野氏の城で湯野田城が平時の居館、日守城が詰城とも考えられている。
嬉野氏ははじめ有馬氏に従っていたが、天正年間(1573年~1592年)頃に龍造寺氏に従うようになった。
日守城は塩田川と岩屋川内川が合流する地点の南に聳える標高205.9mの日守山に築かれている。
主郭は三角点のある山頂北端と考えられるが、全体的に曲輪の造成は甘く不明瞭である。北端東下に浅い堀切、中央北側にも浅い堀切、そして南端は明瞭な堀切がある。また途中、大きな岩があり、そこから北西に伸びた尾根をかなり下った標高130m付近に明瞭な堀切があり、その先が出丸とされる。
城域のすぐ南まで茶畑があり、そこまで舗装された林道がついているが、南の小杭側から伸びているが入口は不明。加杭集落の上にある墓地から畑跡を抜けると茶畑の辺りにでてくる。
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