築城年代は定かではないが、佐々木加治氏一族の竹俣氏によって築かれた。 「竹俣氏系図」に「応永20年城郭を三光村に築く」とあり、これが岡塚館ではないかと推測されている。
竹俣氏は佐々木加地氏の庶流で、季綱のときに竹俣氏と称した事に始まるとされる。「揚北衆」の一人として活躍し、竹俣慶綱は天正10年(1582年)越中国魚津城将の一人として籠城したが織田軍のために討死した。
天正9年(1581年)には同族である新発田重家が上杉景勝に反旗を翻し、加地氏などが同調したが、竹俣氏は一貫してこれに加わらず上杉景勝に従っている。こうして、上杉氏が会津へ転封となると竹俣氏もまたこれに従い会津へ移った。
岡塚館は「館ノ内」と呼ばれる微高地に築かれており、現在は畑となっている。
主郭は方形のようだが、東は二重空堀で西は浅いが一重の堀のようである。複郭であったのか現地には主郭の西に二の丸、三の丸の標柱が建っている。