築城年代は定かではないが弘治年間(1555年〜1558年)に上杉謙信によって築かれたと云われる。 天文21年(1552年)関東管領上杉憲政は上野国平井城から上杉謙信を頼って越後に逃れた。この憲政の住まいとして築造されたのが御館である。
天正6年(1578年)上杉謙信が急死すると上杉景勝と上杉三郎景虎との間で越後の諸将を二分した家督相続争いが起こる。これが「御館の乱」である。いち早く春日山城の本丸を占拠した景勝に対して、三郎景虎は春日山城を脱しこの御館に籠もって防戦する。天正7年には景勝軍の御館への猛攻撃が開始されると三郎景虎は支えきれず、和睦の使者として関東管領上杉憲政と三郎景虎の長男道満丸は景勝の元へ訪れようとしたが景勝軍に囲まれ討ち果たされた。三郎景虎は出自の小田原北条氏を頼って落ちる途中、鮫ヶ尾城に立ち寄ったが城主堀江宗親はすでに景勝方に内応しており、三郎景虎はここで自刃して果てた。しかし、御館の乱はこれで終結せず、本庄秀綱などは最後まで抵抗し天正8年(1580年)になってようやく終結した。
明治の初め頃までは堀や土塁の跡が残っていたが、国鉄の敷設工事などによって崩され、その後の宅地化によって現在は遺構は消滅し、主郭の一部分が「御館公園」として住宅地の一角に設けられ、案内板や石碑が建てられている。発掘調査や地籍図から東西120m、南北150m程の規模の主郭は二重の堀によって囲まれ、複郭で構成されていた。
国道8号線から石橋交差点を北に曲がり県道123号線に入って北陸本線を越えた辺りに御館公園の道標が出ている。
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