築城年代は定かではないが戦国時代に神保長職によって築かれたと云われる。 南北朝時代に築かれたとされる和田城は、この増山城の北方にある亀山城と見られている。
天文12年(1543年)頃に神保長職は富山城を築き新川郡の椎名氏を圧迫するようになった。椎名氏を支援する越後の上杉謙信は永禄3年(1560年)富山城を攻め落とし、居城であった富崎城を攻め落とされ、長職は増山城に逃れた。上杉氏はなおも追撃して長職は再び城を捨てて逃れた。
永禄5年(1562年)頃に神保長職は上杉氏に降伏し、後に増山城に居城を移したが、元亀3年(1572年)頃に没した。
長職没後、増山城には一向一揆が籠ったが、天正4年(1576年)上杉謙信が攻め落とした。 謙信は家臣吉江宗信を増山城に置いて拠点とした。
天正6年(1578年)上杉謙信没後、織田信長に仕えていた神保長住が織田軍を率いて越中に入国し、天正9年(1581年)には佐々成政の軍勢が増山城下を焼き払い増山城は落城した。
天正13年(1585年)羽柴秀吉の越中征伐によって佐々成政は秀吉に降った。成政は新川一郡に減封となり、砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増され、増山城には利家の娘婿中川光重が入った。
増山城は和田川東岸、増山湖の東の山塊に築かれている。 北には亀山城や孫次山砦があり、富山三大山城(松倉城、守山城)の一つに数えられる。
普請は山全体に行われ対岸には城下町があり、現在も城下町の土塁が残っている貴重な史跡である。2009年に国指定史跡になったこともあってか、遊歩道は良く整備され大半の遺構は良好に見ることができる。堀切や竪堀辺りが入念に草刈りされているようで、下から見上げるだけでそれとわかり大変見やすくなっている。
簡単に見て回った印象では、各曲輪の独立性が高く、深い堀切や横堀によって区画されている。名称では「一ノ丸」「二ノ丸」「三ノ丸」とあるが、城の中心となる曲輪は二ノ丸ではないかと思える。
和田川ダムを目指す。県道72号線と県道239号線の宮森新交差点を東へ進んで一本目を北に曲がる(この辺りに道標)。この辺りから幟旗が掲げられているが、和田ダムの先端を対岸に渡った所に駐車場があり、ここから登ることができる。入口にパンフレットも用意されている。
城下町の土塁はここから南に見える赤い橋の近くに案内板とともに残っている。
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