天正11年(1583年)佐々成政によって築かれたと云われる。
弓庄城土肥氏ははじめ上杉謙信に従っていたが謙信没後は織田氏に従うようになった。しかし、本能寺の変で織田信長が没すると再び上杉方に通じるようになる。これに対して佐々成政は天正10年から天正11年にかけて土肥氏の居城弓庄城を攻めた。このとき付城の一つとして築かれたのがこの郷田砦と云われる。
郷田砦は弓庄城の東に聳える山塊の北端にある桝形山と呼ばれる丘陵頂部に築かれている。
主郭は山頂にあって西を除く三方に土塁が残る。南の中央に土塁の開口部があり虎口となっている。北にも坂があり虎口のようでもあるが、この辺りは墓地となっている現状から後世の改変とみられる。主郭の南は堀切で土橋が架かる。数段の削平地が南へ続き堀切に至る。ただこの堀切は現状通路のようでもあり切通かもしれない。主郭の周囲には腰曲輪や帯曲輪が付いている。
山の西側から道がある。これを登ると南端の堀切(切通?)に至る。
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