保元3年(1158年)大宰大弐となった平清盛が大庭平三景親に築かせたのが始まりとされる。
応保元年(1161年)豊後の日田陸奥守次男の日田判官宗道が在城。文治2年(1186年)からは筑紫三郎種有、筑紫弥平治種因の居城であった。種有は承久の乱で官軍に従って所領を没収され、大友氏の持城となった。
暦応元年(1338年)からは大庭十郎左衛門景道、正平19年・貞治3年(1364年)には岩石城に籠もっていた城井出羽守が菊池勢に攻められ落城した。応安元年(1368年)豊前国守護大内氏の任命により熊井右近将監が守った。
永徳元年(1381年)頃より大庭平太景忠が城主となったが、この頃より大内氏と大友氏によって争奪戦が繰り広げられたようであるが、景忠以降、景行、景種、景則、景尚と五代続いたとされる。
天正6年(1578年)大友氏が耳川合戦で島津氏に大敗を喫すると、天正13年(1585年)秋月種実によって攻められ、坂本栄仙は奮闘むなしく討死して落城した。 天正15年(1587年)4月豊臣秀吉の九州征伐で前田利長・蒲生氏郷が攻め寄せ、わずか一日にして落城。秋月氏の城将熊井越中守は討死した。
九州征伐の後、小倉城に入った毛利勝信は毛利九郎右衛門高頼を城将として岩石城に置いた。関ヶ原合戦後に豊前に入封した細川忠興は、長岡肥後守忠尚を城将として置き、元和の一国一城令によって廃城となった。
岩石城は添田町と赤村の境に位置する標高454mの岩石山山頂に築かれている。
岩石城の遺構は概ね標高400m付近より上部にあり、山頂から南側に集まっている。 東屋のある山頂は天守台と云われ、本丸はその南下にある。南側の中央には枡形虎口跡と思われる窪地があり、付近には石垣が残っている。
天守台から北東に伸びた尾根には馬場があり、先端部には国見岩・梵字岩がある。馬場跡の看板付近の南北両側面には石垣が良く残っている。
山頂から南東側に伸びている尾根群には連続堀切や大堀切を挟んで曲輪が連なり、谷間には古井戸が残る。
南西の白山神社奥の院の北側の谷部には広い削平地が広がり、その北側の尾根には堀切から南北両側に大きく竪堀が落とされている。
西麓の添田町にある添田公園を目指す。登山道は公園からもあるが、鳥居を潜って舗装された林道を走ると標高230m付近まで車で行くことができ、中腹の登山道から奥の院に至る。
最寄り駅(直線距離)