築城年代は定かではない。
天正14年(1586年)豊後へ侵攻した島津軍は利光宗魚が堅守する鶴賀城を包囲していた。大友宗麟から援軍を請われた豊臣秀吉は、仙石秀久を軍監として先陣を送り込み、長宗我部元親・信親父子、十河存保など四国の大名が豊後へ渡り、戸次統常に先導されてこの鏡城に入った。鏡城で作戦会議が開かれ、戸次川を渡河して戦う作戦に決まった。この戸次川合戦で島津の釣り野伏の戦法に掛かった四国勢は大敗を喫し、長宗我部信親・十河存保など名だたる部将が討死した。
鏡城は大野川西岸の丘陵に築かれていた。 現在県道622号線沿いに鏡城として道標があり、それを登り詰めると川沿いに 突き出した小さな丘陵にある公園に至る。この公園に鏡城と戸次川合戦の案内板が設置されている。
対岸にある長宗我部信親の墓の所に「戸次川原の合戦要図」があり、ここに記されている鏡城はもう少し西の竹中トンネルの東側一帯を指しており、『大分の中世城館』の地図もこの辺りをマークしている。この辺りは現状では果樹園や畑、山林となっており、広く平な地形があるものの遺構は不明である。
竹中小学校と竹中中学校を結ぶ川沿いの県道622号線沿いに道標が出ている。小型車ならそのまま道なりに登っていけば公園まで車で行くことができる。
長宗我部信親と十河一族慰霊碑は対岸(地図)にある。
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