築城年代は定かではない。文和2年・正平8年(1353年)一色直氏によって築かれたとも云われる。直氏は九州探題一色範氏の子で、仁比山城などで宮方の菊池武安と争っていた。
その後、大宰府を追われ滅亡しかけていた少弐資元が大友氏の支援を受けて再興し、勢福寺城を居城とした。資元の子冬尚の時代になると台頭してきた龍造寺氏と争うようになる。
弘治元年(1555年)龍造寺隆信が勢福寺城を攻めたが、このとき少弐冬尚は西島城の横岳氏の所にいて、勢福寺城は重臣の江上武種が守っていたが落城した。しかし、武種は間もなく冬尚を擁して勢福寺城を回復する。永禄元年(1558年)に再び龍造寺氏に攻められ、蓮池城主の小田政光が討死するなど激戦となったが、一旦和議が結ばれた。しかし、翌永禄2年(1559年)龍造寺隆信は和議を破棄して勢福寺城を攻め、少弐冬尚を自刃に追い込み少弐氏は滅亡した。
少弐氏が滅亡した後は龍造寺氏に降った江上武種が城主となり城原衆を率いたが、永禄12年(1569年)大友宗麟が佐嘉の龍造寺を攻めたとき、大友軍が勢福寺城のすぐ近くにある松崎城に布陣して大友に味方するよう勧告、武種は大友氏に従い龍造寺氏との今山合戦で戦った。しかし、大友軍は龍造寺軍に敗れ、勢福寺城は龍造寺氏に攻められ再び武種は降伏、龍造寺隆信の二男を養子に迎えることとなった。
武種の養子となった江上家種が勢福寺城の城主となると龍造寺氏の重要な支城となったが、天正17年(1589年)家種は蓮池城へと移り、勢福寺城は歴史から消えていった。
勢福寺城は標高196.1mの城山山頂に築かれている。現在は南麓にある種福寺から登山道が整備されている。どうやら市の文化財にも指定されていないようなのだが、この勢福寺城を中心とした南東尾根遺構、東麓遺構、雲上城は国指定史跡として保護するに値する中世城館遺構だと個人的には思う。この貴重な遺跡群を長く保存していきたいものである。
勢福寺城は北西から南東に長く伸びた尾根に築かれており、大きく北曲輪群と南曲輪群から成る。この山頂部遺構に加え、南東尾根遺構、東麓遺構、雲上城など広大な城域を誇り、遺構の残存具合も良好である。
主郭は南曲輪群の北の最高所で北西側に高土塁があり一部内側に石積がある。この主郭から南東に伸びた尾根に曲輪を連ねており、途中にスロープや井戸があり、南端の曲輪は低い土塁が付いている。また北曲輪群へは主郭虎口から北下の大堀切、岩場を越えて続いている。南の山麓に続く尾根は急峻な地形の為か途中二箇所ほど堀切があるのみである。
一方北曲輪群は南端最高所から西へ曲輪を連ね、北尾根は堀切、西や南の山腹には竪堀を設けており、南曲輪群よりも側面を厳重にしている。
登山道入口は種福寺の東にある。縄張図入りの案内板は南東に少し離れた位置にあり、種福寺と城原公民館の間にある。(地図)
少弐冬尚の墓は真正寺にある(地図)
最寄り駅(直線距離)