築城年代は定かではないが明応8年(1499年)頃赤松政秀によって築かれたと云われる。 政秀が赤松則村の子村秀を養子に向かえ鶏籠山城を築き、平井城から鶏籠山城へ移ったとされる。
赤松村秀はその後、塩屋城主赤松政秀が没すると塩屋城へ移り天文9年(1540年)に没した。その後鶏籠山城は村秀の子下野守政秀が城主となる。永禄7年(1564年)下野守政秀は室山城を急襲して城主浦上政宗を討ち取るが、元亀元年(1570年)毒殺された。
下野守政秀の後、弥三郎広貞、弥三郎広英と続くが、天正5年(1577年)織田信長の家臣羽柴秀吉が播磨へ侵攻すると、広英はこれと戦わず城を出て佐江村に蟄居する。 天正10年(1582年)広英は羽柴秀吉に従って功をあげ、但馬国竹田へ移った。
・天正5年(1577年)石川光元が一万石で入封。
・天正9年(1581年)蜂須賀正勝が五万三千石で入封、天正13年(1585年)阿波国徳島へ転封。
・天正13年(1585年)福島正則が入封、天正15年(1587年)伊予国湯築へ十一万石で転封。
・天正15年(1587年)木下勝俊が入封、文禄3年(1594年)若狭国後瀬山へ転封。
・文禄3年(1594年)小出吉政が入封、文禄4年(1595年)但馬国出石へ五万三千石で転封。
鶏籠山の龍野城から南麓にある近世龍野城へ移した時代は定かではない。ここでは案内板にもある通り、関ヶ原合戦後に播磨に入封した池田輝政の時代から近世龍野城へ移ったと過程して記述した。以後の歴史は龍野城を参照。
城は近世龍野城の北背後に聳える鶏籠山に築かれている。 山頂に本丸、南の尾根先に二の丸を配した連郭式山城である。
本丸の周囲には石垣が残り、南に虎口を開く。北下に八幡宮があり、そこへの参道が本丸の東側を回って東へと伸びる。この参道の一部に石段があり「古城の石段」と記されている。ここから北へ回り込んだ曲輪にも石垣が残り、北へ続く尾根に一条の堀切が残り堀切は東へ竪堀となって伸びる。本丸周辺の曲輪には大量の瓦の破片が散乱している。
本丸から南へ尾根伝いに曲輪が連なり、二の丸へと達する。二の丸も南へ曲輪が連なり、南端の帯曲輪には土塁が巡っている。二の丸にも石垣が残っているが本丸に比べると僅かである。
近世龍野城から大手道が通じる。
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