大分県の足跡

城郭放浪記


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豊後国分寺写真
豊後国分寺国史跡
大分県大分市大字国分
豊後国分寺は現在も天台宗の医王山国分寺として存続、周囲は史跡公園として整備され「大分歴史資料館」が併設されている。 豊後国分寺は中門、金堂、講堂、食堂が南北に連なり、中門と金堂が回廊で結ばれる。...
大友義鑑の墓写真
大友義鑑の墓市文
大分県臼杵市野津町大字宮原字寺小路
大友義鑑は豊後の戦国大名である大友氏第20代当主で、キリシタン大名として著名な大友宗麟(義鎮)の父である。 大友義鑑は天文19年(1550年)2月10日「二階崩れの変」と呼ばれる事件により、津久...
乙津川古戦場写真
乙津川古戦場
大分県大分市西鶴崎2-10
天正15年(1587年)鶴崎城に居た島津の軍勢は豊臣秀吉の軍勢が九州へ上陸してくるとの知らせに、薩摩へと引き上げることとなった。このとき、鶴崎城主吉岡統増の母で島津と和議を装っていた妙林尼は一計を案じ...
寺司地蔵尊写真
寺司地蔵尊
大分県大分市西鶴崎2-7
天正15年(1587年)乙津川の戦いでの戦死者を弔った千人塚の上に地蔵尊を安置したのが始まりで、昭和の時代に公民館の新築と供にお堂ができて現在のようになった。 寺司地蔵尊は寺司公民館の隣にあり、...
中畑国東塔写真
中畑国東塔市文
大分県杵築市山香町大字小武字中畑
大正10年頃に村道改修によって発見された国東塔で、この辺りは長者屋敷跡と伝えられており、長者の供養塔と云われている。 県道31号線沿いにある向野入口バス停から西へ入った所に国東塔が祀られている。
石丸宝塔写真
石丸宝塔国重文
大分県杵築市大田石丸
石丸宝塔は「元徳二年(1330)庚午十月二十八日」とあり鎌倉時代末期の宝塔で、国指定重要文化財となっている。 石丸宝塔は大田小学校の南に小公園のようになった区画があり、そこに祀られている。要所に...
田原家五重塔と丸山墓地写真
田原家五重塔と丸山墓地国重文
大分県杵築市大田沓掛
田原氏は大友氏初代大友能直の子泰広が国東郡の田原別府に住んたことに始まるという。 国指定重要文化財に指定されている田原家五重塔は延元四年(1339)の建立で田原直平の供養塔と伝えられている。 ...
森藩久留島家墓所写真
森藩久留島家墓所
大分県玖珠郡玖珠町森(安楽寺)
豊後国森藩久留島家の墓所は安楽寺にある。 初代は来島康親でもともとは伊予国来島城を居城とした海賊衆であったが、関ヶ原合戦後に豊後国森一万四千石の大名となり、二代通春のときに久留島と名を改め、以後明治...
毛谷村六助の墓写真
毛谷村六助の墓
大分県中津市山国町槻木
毛谷村六助は加藤清正の家臣で俗に「加藤十六将」の一人に数えられた貴田(木田)孫兵衛のことで、毛谷村に生まれたと云われる。 加藤清正の家臣に取り立てられ、朝鮮の役で活躍し、享年62歳でこの地に埋葬され...
宗像掃部の墓写真
宗像掃部の墓
大分県別府市大字南立石
慶長5年(1600年)の石垣原合戦で大友義統軍に加わって討死した宗像掃部の墓で、大友義統本陣のすぐ近くにある八幡神社の境内にある。 宗像掃部の陣は義統本陣の西側にあったと云われる。
吉弘統幸の墓写真
吉弘統幸の墓
大分県別府市石垣西
慶長5年(1600年)の石垣原合戦で大友義統軍に加わって討死した吉弘統幸の墓で、現在は吉弘神社の境内となっている。社殿の裏側に吉弘統幸の墓とされる板碑があり、案内板が設置されている。 吉弘統幸は...
石垣原古戦場 七ツ石写真
石垣原古戦場 七ツ石
大分県別府市大字鶴見
慶長5年(1600年)関ケ原合戦のおり、西軍は大友義統を旧領国の豊後へ派遣し、徳川方であった細川忠興の支城で松井康之が城代を務めていた木付城の攻略を命じた。 大友義統は海路で別府浜脇浦に上陸して...
足跡地図
豊後国府
大分県大分市大字古国府
国府
西寒多神社
大分県大分市寒田1644
一宮
柞原八幡宮
大分県大分市大字八幡987
一宮
宇佐神宮
大分県宇佐市大字南宇佐2859
一宮
岡藩主入山公廟
大分県竹田市久住町大字有氏
墓碑
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