賀名生は元々「穴生(あなふ)」と記された地名であったが、後村上天皇が行宮をこの地に移した際に、南朝による統一を願って「叶名生(かなう)」と改め、さらに「賀名生」と改めたものという。
延元元年(1336年)京都を脱出した後醍醐天皇が穴生に着き、一時とどまったが吉野山に脱した。このとき天皇を手厚くもてなしたのが郷士の堀孫太郎信増で、その子孫が住んでいる屋敷が現在も残る賀名生皇居跡と呼ばれる堀家屋敷である。
賀名生の地は正平3年(1348年)後村上天皇、文中2年(1373年)長慶天皇、元中9年(1392年)後亀山天皇のときに南朝の行宮であった。
賀名生皇居跡の堀家は現在も民家として利用されており、見学は春と秋の期間限定で予約制となっている。近くには「賀名生の里 歴史民俗資料館」や賀名生で没した北畠親房の墓がある。