築城年代は定かではないが南北朝時代に越智氏によって築かれたと云われる。
その後、天正8年(1580年)織田信長によって出された破城令によって一度は破却されたが、天正12年(1584年)筒井順慶によって再建された。同年順慶が没して定次が家督を継ぐと、筒井氏は翌天正13年には伊賀国上野へ転封となった。
筒井氏の後は秀吉の弟羽柴秀長が郡山城に入封し、その家臣家臣本多利久に二万五千石が与えられ高取城主となった。 関ヶ原合戦で本多氏は徳川家康に属して所領は安堵されたが、寛永14年(1637年)本多政武が没すると嗣子なく断絶となった。
寛永17年(1640年)植村家政が二万五千石の大名として入封し、十四代続いて明治に至る。
高取城は標高583.9mの高取山山頂に築かれている。三大山城(備中国松山城・美濃国岩村城)のうちの一つであり、城下町から約3kmも離れた山に築かれているのが特徴である。 江戸時代初期はこの山城に藩主を始め家臣団が居住していたが、寛永年間(1624年〜1644年)末頃から麓にある「ゴテンアト」に下屋敷を築いて居住した。
高取城は本丸の北西隅に三重天守、南西隅に同じく三重の小天守を備えていた。本丸の西に二の丸、二の丸北に三ノ丸と続いていた。本丸、二の丸周辺は近世の高石垣によって固められ、公園として良く整備されている。しかし、北へ続く曲輪などは余り手入れされておらず樹木が茂っており、かつて家臣団の屋敷があった曲輪などが埋もれている。
二の門(移築 城門)
火薬櫓(移築 櫓)
松ノ門(移築 城門)
車の場合、国道169号線清水谷交差点から県道119号線に入り、壷阪寺を過ぎて終点まで行くと高取城の大きな案内板が設置された入口に至る。ここからだと比高は100mに満たない。
徒歩の場合、城下町から植村氏の菩提寺である宗泉寺を経由して登る大手道が利用できる。さらに下山は壷阪寺を経由して戻るルートがあり、高取町観光ガイドを参考にすると良い。 車の場合でも高取幼稚園付近に観光用の無料駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)