築城年代は定かではないが佐竹氏によって築かれたと云われる。 土佐佐竹氏は承久の乱のさい、佐竹信濃守と後藤基之が入部したことにはじまるとされる。
南北朝時代には北朝方として戦っていたが、佐竹掃部少輔義之の頃には一条氏の老分となっていた。永正14年(1517年)津野元実が一条氏の戸波城奪還を企てたさいには、援軍として駆けつけこれを撃ち破った。
元亀2年(1571年)佐竹信濃守義直は長宗我部元親に降り弟で上ノ加江城主であった佐竹太郎兵衛義秀を人質として差し出した。この義秀の子親直は長宗我部元親の娘を正室に迎え、大坂の陣では長宗我部盛親に従って討死している。親直の子が仙台伊達家に仕えた柴田外記朝意である。
佐竹義直の子親辰は長宗我部氏が改易となったのち和泉国堺に移り、そこで没した。
久礼城は中土佐町役場の西側に聳える標高104mmの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
城の中心となる曲輪は3つで、主郭のI、東曲輪II、西曲輪IIIである。いずれも土塁が巡る直線的な縄張で虎口もあり、土塁の上には至るところに塀跡の石塁が残されており、この城の最大の特徴であろう。
主郭は東西に長く西側に佐竹神社が鎮座する。虎口は北と南にあり、いずれも曲輪IIにつながるが、特に北の虎口3の外側は石段と塀跡が残る。2つの虎口の間には方形の窪みがあり井戸跡である。主郭は過去に発掘調査が行われ、西端の段上や東端などに礎石建物が検出されている。
東曲輪IIは東へ伸びた尾根築かれた土塁囲みの曲輪で、北西隅に虎口3を伴う小空間、南東の谷間に開く虎口4がある。虎口3から主郭の虎口1に上がる小空間には現状城内で最も高い石積がある。虎口4は谷から入ると左右に分かれるような形状になり、両脇に分厚い土塁が残されている。
西曲輪IIIも土塁囲みで虎口5は東側の主郭との間の堀切に面して開く。この堀切は通路となっており、北側面を進むと曲輪IIの虎口3に至る。曲輪IIIの内部は東西両側から低い段が張出し、内部の通路は屈曲している。
曲輪IVは主郭から北へ伸びた尾根先にあり、東側に高土塁を設けた細長い曲輪となっている。虎口3から続く通路は堀底道となって尾根を下るが、このあたりの塀跡の石積は分厚い。
曲輪IIの東側は三重堀切となっているが、その外側に空間Vがある。この部分はヤブが深く細部は不明だが、北と南は両方とも山道の名残だろうか。
久礼城の外側に設けられた多重堀切と畝状竪堀群は圧巻の規模を誇る。主郭から南へ伸びた尾根には五重堀切7、曲輪IIIの西側には三重堀切とそれに連動する畝状竪堀群3や南に伸びる連続竪堀群、主郭の南東側には横堀と深く短い畝状竪堀群8など見どころはたくさんある。
駐車場は中土佐町役場を利用する。ここから久礼保育園に向かい、保育園の駐車場の奥から登山道が用意されている。
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