築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)籾井照綱によって築かれたと云われる。 籾井氏は佐々木源氏の末裔で福住十五村を支配して足利氏に仕えていたと云う。
天正年間には織田信長の部将明智光秀がたびたび丹波国へ侵攻するようになる。 この時の城主は籾井綱利で、父綱重は次男綱正を従えて安口城に隠居していた。天正4年11月(1576年)18日間の激戦の末に明智光秀を撃退するが、天正5年10月に大軍をもって押し寄せた光秀によって落城し、城主綱利は自刃したという。
黒井城赤井(荻野)直正が波多野氏の赤鬼と呼ばれたのに対して、籾井城主籾井教業が青鬼と呼ばれ勇猛な武将として伝承されているが、教業に関してはその実在が疑われている。
城は籾井川の北岸の山頂にあり、京より丹波へ入る要所に築かれている。
主郭は山頂で「東宮御成婚記念」の石碑が建っている。主郭から北へ向かって二段の削平地があり、北端には土塁がある。その北側には堀切があり土橋が架かる。
堀切を越えて北へ行くと曲輪があり、現在は西の尾根に向かって道が伸びているが、搦手は北側の尾根方向にあったようだ。
主郭からは南西と南東方向に尾根が伸び、それぞれ削平地と堀切がある。南東側の尾根筋が大手道のようで、現在の登山道もこちらから登ってくる。
国道372号線と国道173号線の交差点を西へ進むと、川の北側に禅昌寺があり、お寺の上の駐車場に向かう道の左側に登山口がある。