慶長10年(1605年)宮城右京進頼久によって築かれた。 頼久は山崎片家の子で宮城丹波守豊盛の娘婿として養子となった人物である。 慶長10年(1605年)実兄である因幡国若桜鬼ヶ城主山崎家盛から但馬国二方郡内六千石余を分与され旗本となり、芦屋に陣屋を構えた。
慶長14年(1609年)宮城頼久が没すると嫡子豊嗣が家督したが、幼小であったため祖父宮城豊盛を後見人とした。 元和6年(1620年)豊盛が没したことで、その遺領を合わせて相続し、寛永4年(1627年)備中国や美濃国に点在していた所領を二方郡一円にまとめることが認められ、これによって陣屋を清富へと移し、芦屋陣屋は廃された。
芦屋陣屋は中世山城である芦屋城の東麓に築かれていた。 芦屋陣屋の前身は芦屋城の土居であろうか、天正10年(1582年)頃には鳥取城代となった宮部善祥坊継潤の代官、慶長6年(1601年)以降は因幡国若桜鬼ヶ城主山崎家盛の代官が置かれていたという。
芦屋陣屋は浜坂港の南側にある「魚と屋」という旅館の隣に「城主塩冶周防守之碑」の石碑と案内板があり、この奥の畑地一帯であったという。畑の中に陣屋の石垣が残っているということで、少し探してみたら確かに石垣はあるのだが、これが陣屋のものなのかどうかなんてよく分からない。
近くにある龍潜禅寺には塩冶周防守の位牌があるという。いずれにしても芦屋城に関するものが多く案内されているが、陣屋に関しては何もないようである。