康平6年(1063年)宇都宮宗円によって築かれたと云われるが定かではない。 「天正4年(1576年)の12月2日に着工して同月25日に落成した」との記載が残っているが、その期間からすると改修工事と思われる。
戦国時代末期の宇都宮国綱は北条氏の脅威から一時的に宇都宮城を離れ多気山城に居城を移し、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後に、宇都宮城に戻ったともいわれる。
栃木県随一の規模を誇る多気山城であるが、その歴史についてはあまりわかっていないようである。
城は山頂に御殿平と呼ばれる本丸を中心として、山全体に無数の曲輪を配している。
登りはじめた所は既に城域で、削平地と空堀が見える。一度林道に出て、更に登って行くと、南東尾根に築かれた曲輪群を通りながら登ることになる。
この尾根を登りつめると東屋のある御殿平に到達する。西へ向かうと南尾根からの虎口があり、低土塁と空堀が残っている。 現状の土塁から見ると、東側と西から北側で御殿平は別曲輪であったようで、東側へは食違虎口、北または西側へはコの字のような経路をとって入るようになっている。
御殿平を北へ進むと櫓台があり、ここが多気山の山頂となる。ここから空堀を越えて北尾根の方にも曲輪が配置されているが、現状は草が生い茂っており、歩行ルート以外はあまり良く見えない。
御殿平から南へ降りるルートは南西の愛宕社へ降りるルートとそのまま南へ降りるルートがある。一度南へ降った後、再度愛宕社の尾根方面を登ってみたが、林道作業用の重機が通った道が幾重にも重なって結構破壊されているようだ。