築城年代は定かではないが鎌倉時代に芥河氏によって築かれたと云われる。 芥川城は平城であるこの芥川城と、三好山に築かれた山城があり、一般的に後者を芥川山城と呼んでいる。
芥河氏が史料にはじめて登場するのは、弘安7年(1284年)のことで、叡尊を戒師として出家した芥河右馬允平影信という人物である。
南北朝時代には芥河氏は北摂津を代表する国人として成長し、応仁の乱では東軍に属して戦ったが、西軍の大内正弘の軍門に降り、その後芥河氏は衰退した。
延徳2年(1490年)細川政元は衰退していた芥川宿を再建し、能勢因幡守頼則を芥川城主とした。
永正13年(1516年)正月連歌師紫屋軒宗長が詠んだ「芥川能勢因幡守新城にして祝の心を うちなびき いつこかのこる 春もなし」のこの「新城」が芥川山城であったと考えられており、平城である芥川城の廃城は定かではないが、次第に山城へと移っていった。
芥川城は西国街道芥川宿の街道沿い、芥川橋東詰辺りに築かれていた。 現在芥川城の石碑の建つ一帯は字「殿ノ内」である。
高槻駅の北西700m程、jt医薬総合研究所の西隣にある高槻スイミングスクールの南側の道路を西へ行くと、長屋門などがある大きな屋敷があり、その南側に石碑が建っている。
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