築城年代は定かではないが布施氏によって築かれたと云われる。 布施氏は六角氏の家臣で、布施山城を居城とした布施三河守系が本家筋である。この大森城はその一族布施淡路守系の居城と考えられている。
永禄6年(1563年)の観音寺騒動の後に布施三河守は浅井氏に味方する。その後、永禄10年(1567年)に定められた「六角氏式目」に布施淡路守公雄の署名があり、布施淡路守が六角氏の中で有力となっていたことが伺える。
六角氏が滅亡して織田信長が台頭すると布施公保が信長の馬廻衆に取り立てられている。本能寺の変では明智光秀に味方したが、その後消息を絶つ。
大森城は東西に伸びた布引丘陵の標高230m付近に築かれている。現在は遊歩道が整備され非常に見学し易く整備されている。
大森城は山頂部の城域をすり鉢状にして周囲に土塁を巡らせ、内部に広く曲輪を築いた縄張で南側が一段小高く、ここに主郭を置く。虎口は西にあり、内部に入るとすり鉢状になったスタジアムのような景色が広がる。中央に南の上段に登るスロープがあり、ここを登ると虎口が連続して主郭に至る。
江戸時代に大森陣屋があった付近が布施氏の居館と推測されている。
県道沿いにある大森神社が目印。ここから動物除け柵の中を農道が通っており、これをしばらく進むと縄張図が載った案内板がある。
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