築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)頃に手筒氏によって築かれたと云われる。日本城郭体系によれば、手筒氏に関しては能登国守護畠山氏の重臣平氏(ひらか)を「平箇氏」とも書いた事からこれを読み誤って「手筒氏」となったという説が紹介されている。案内板では「平氏」に「へら」とルビを振っている。
天正年間(1573年〜1592年)には畠山氏の家臣河野肥前の居城であったか、遊佐氏や上杉氏の攻撃によって落城し、前田利家が能登に入国するとその家臣中川家範が城主となった。
城は末吉集落の北の城山に築かれている。得田街道、土田街道を押える要衝に位置する。
主郭は城山南西の端にあり、北東隅部が高くなっている。現地案内板にある縄張図では城山山頂を含む広大な領域を城域としているが、石川県中世城館調査報告書では尾根筋に堀切などが一切ないことからそれを疑問視している。 遊歩道が良好に整備されているので、「狼煙台」とされる城山山頂から観音堂の方へむかって散策してみたが、確かに堀跡はなく自然地形に近いものである。
城山の南麓にある西来寺を目指す。その脇に案内板が建てられておりここから入る道が大手だという。
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