築城年代は定かではない。天正年間(1573年〜1592年)の城主は平楽右衛門尉と伝えられているが、これは越後の上杉謙信の部将平子氏(たいらく)の誤伝ではないかとされている。
天正4年(1576年)上杉謙信が能登に侵攻した際に落城し、上杉氏の家臣轡田肥後・平子和泉(若狭守とも)・唐人式部が甲山城に置かれたという。 天正5年(1577年)乙ヶ崎合戦では轡田肥後・唐人式部・板倉伝右衛門が穴水城救援の為、船に乗って押し寄せたと云われる。
城は通称「大口の瀬戸」と呼ばれる海路の要衝に位置し、「阿曽良泊」と呼ばれた良港で船溜りに適している。
現在城跡は畑や人工林となっているが大半はシダ類に覆われており地表面を観察することは難しい。それでも屈折した空堀や土塁の一部は明瞭に判別できる。虎口と見られる部分には横矢掛けの櫓台も残ると云われるが、虎口と思われる部分は深い薮となっていて近付くことができなかった。