築城年代は定かではないが安東氏によって築かれたと云われる。
暦応2年(1339年)の「曽我貞光申状」に曽我貞光が「尻八楯」の安東四郎道貞(潮潟道貞)を攻めた記録があり、この尻八館に比定する説がある。
現地の案内板によれば、寛喜2年(1230年)安東一族がアイヌのチャシを土台として尻八館を築き、貞永元年(1232年)安倍三郎成季が治領代頭役に任ぜられた。正安2年(1300年)安東孫次郎が尻八館城主となり、明徳4年(1393年)安東四郎道貞が尻八館城主となって潮潟四郎と名乗った。応永32年(1425年)道貞の長男重季が鉢巻館より移り、重季は南部義政の女を妻とした。永享7年(1435年)尻八館は南部義政に攻められ落城し、このとき重季の子政季が捕らえられたが義政の女の子であるので八戸で育てられ、成人して旧安東家の知行を継いだ。
尻八館は本州最北端にある本格的な山城といわれ、 後潟川と六枚橋川に囲まれた標高189.5mの山の北東に伸びた尾根に築かれている。
尻八館は山頂からやや北東側の標高182mの所に本丸、さらに北東側の地点に二の丸を築いている。また先端から東へ伸びた貯水池の上に陣場と呼ばれる所がある。
本丸は南西から北東に長い曲輪で南東端に土塁があるが、外側を小郭として切り離したものかやや不明な遺構である。本丸の南西背後を堀切で断ち切っているが、ここに土門と呼ばれる両側に土盛りが残る遺構がある。北東側は二重堀切で、内側には土橋が架かっている。この土橋は発掘調査で一度堀切とした後に土を盛って固めたことがわかっている。 北側側面には横堀があり一部二重になっている。南側の側面は横堀にはなっておらず、いくつかある尾根の堀切で切り落とした形である。 二の丸で多数の建物跡が検出されたのに対して本丸では検出されなかったようである。
二の丸は本丸の北東にあり、途中の尾根は自然地形の尾根が続いている。 二の丸は南西側が高く、北東に向かって微妙な段差で曲輪が続いている。 本丸に続く南西側と南尾根はそれぞれ二重堀であるが、内側は横堀状になって裾を南に回り込み南尾根の内側の堀となる。この堀の途中から竪堀が落ちているが、この竪堀と平行して南尾根の外側の堀切から変化した竪堀が落ち、二重竪堀になっている。 北側は堀ではなく帯曲輪になっており、途中短い竪堀がいくつか落ちている。
国道280号線内真部蓬田バイパスから後潟・四戸橋地区にある「青森市農林水産部農業指導センター」、「青森市ふれあい農園」を目指す。山裾辺りまで進むと「尻八館登山口」の道標が出ている。そのまま道標に従って行くと貯水池にある駐車場にたどり着く。
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