築城年代は定かではないが建長年間(1249年〜1256年)頃に一戸摂津守義実によっで築かれたと云われる。 一戸南部氏は南部光行の長子行朝を祖とする。妾腹のために本家を相続できず野田城を築いて一戸氏を名乗ったという。この行朝の子義実が一戸城を築き移ったと云われる。
一戸南部氏の動向は詳らかではないが、周辺には分家を輩出しており、それなりの勢力を持っていたようである。
南部晴政の死によって起こった家督相続争いは、三戸南部氏を二分する騒動となり、結局重臣北信愛の推す南部信直が家督を相続することとなったが、これに反発していた九戸政実は密に一戸城主一戸兵部大輔政連を誘って南部信直を亡き者にしようと画策するが政連に拒まれた。天正9年(1581年)九戸政実は政連の弟一戸信濃と謀って政連を暗殺し、政連の子出羽も後に討たれ一戸家は断絶となり、一戸城には政実の腹心一戸図書が入った。 これを知った南部信直はただちに一戸城を襲撃してこれを落とし、北信愛の二男北主馬介秀愛を城主とした。
天正19年(1591年)九戸の乱で九戸政実は一戸城に夜襲をかけたが、北秀愛はいち早く南部信直に九戸の反乱を伝えた。乱の後は石井信助が城代となったが文禄元年(1592年)豊臣秀吉の命により廃城となった。
一戸城は馬淵川の東岸の河岸段丘に築かれている。
一戸城は北から北館、八幡館、神明館、常念館などの曲輪で構成された城で、その規模は南北700m、東西300m程という。 こられの館はシラス台地の自然浸食による谷と空堀とで区画されており、国道4号線バイパス建設の為に昭和54年頃から一部発掘調査が行われている。それによれば主な使用年代は15世紀から16世紀とされ、建物跡は何度か建て替えられ、堀も新旧あり何度か改修されているようである。
現在は北館の一部が公園となっている他、大半は畑地である。