築城年代は定かではないが南北朝時代に船木頼胤によって築かれたと云われる。 享禄年間(1528年〜1532年)頃には林正長が改修して居城とし、その子玄蕃は永禄5年(1562年)に西美濃に侵攻した織田信長との合戦で討死した。
正長の二男正成は稲葉重通の養子となり、お福(春日局)と婚姻した。その子正定は尾張徳川氏に仕え千石を領したが、孫の代に世継なく断絶した。
城は熊野神社の南側に築かれていた。 熊野神社に案内板があるが、そこから南へ行った所にある民家の所に木々で隠れそうな標柱が建っており、ここが主郭跡だという。