築城年代は定かではないが永正年間初頭(1505年)頃に長野業尚によって築かれたと云われる。
長野氏の名が史料に出てくるのは永享11年(1439年)の結城合戦で、上杉氏に従った一揆衆の中に長野周防守、長野宮内、長野左馬助の名が見える。
長野氏は関東管領上杉氏に従っていたが上杉氏が次第に勢力を弱め、越後国長尾氏を頼って落ちると長野業政は西上野の中心的な存在となった。西上野侵攻を目指す甲斐の武田信玄であったが、長野業政は西上野の国人衆らと固く守ってこれを許さなかった。
永禄4年(1561年)長野業政が没して長野業盛が家督を継ぐと、武田信玄の西上野侵攻も激しくなり、永禄9年(1566年)ついに箕輪城は落城し、長野業盛は自刃して果てた。
武田氏は城主として内藤昌豊を入れたが、昌豊は天正3年(1575年)長篠の合戦で戦死しその子昌月が継いだ。天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると、北条氏邦が侵攻し昌月はこれに降るが、織田信長の武将滝川一益が上野に入ると氏邦も追われて滝川氏の城となる。 しかし、一益は織田信長が本能寺で討たれたため伊勢国に戻り、再び氏邦の支配するところとなった。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後は、関東に入部した徳川家康の家臣井伊直政が十二万石で入城した。慶長3年(1599年)井伊直政は高崎城を築城し居城としたため箕輪城は廃城となった。
箕輪城は榛名白川に沿って南へ伸びた台地の上に築かれている。現在は国指定史跡として良く整備されている。
箕輪城は本丸を中心として北に御前郭、南に二ノ丸、木俣、二ノ丸の西に三ノ丸を配している。大手は南西、搦め手は北東麓である。
主郭は本丸と北の御前曲輪で空堀に土橋が架かっている。御前曲輪には大きな井戸がある。この主郭部を囲むように巨大な空堀が周囲を巡り、最大の見所である。
主郭の南虎口は馬出状の小郭が土橋で繋がり、さらに二ノ丸へと続いている。二ノ丸は南に郭馬出、西に三ノ丸がそれぞれ土橋で繋がる。
郭馬出は大手である南西麓から続き巨大な大堀切で背後の二ノ丸と遮断し土橋が架かる。南から東側も大きな空堀によって遮断し南西側に土橋が架かる。
三ノ丸は二ノ丸の西に位置し、北は蔵屋敷、西は鍛冶郭、大手に続く。この三ノ丸西側に石垣が残され、井伊氏の時代に改修された所である。さらに降った鍛冶郭、大手付近にも石垣が残る。
三ノ丸北の蔵屋敷は本丸と木橋で繋がっていた。さらに北側にある通仲郭近くの曲輪も御前曲輪と木橋が架かっていたようである。
長野業政の墓は箕郷町富岡にある長純寺(地図)にあり、業政令室の墓と箕輪城家臣団の墓という五輪塔群もある。
2016年郭馬出に櫓門が木造で再建された。
郭馬出の櫓門(模擬 櫓門)
箕輪小学校の北側の丘陵が城址で付近に道標が出ている。駐車場は南西麓の大手、北東麓の搦め手にあるが、搦め手からは二ノ丸まで車道がありこの二ノ丸に駐車することもできる。
最寄り駅(直線距離)