至徳元年・元中元年(1384年)北畠顕能・顕泰によって築かれたと云われる。 赤羽谷に隠れ住んでいた鎌倉北条氏の遺臣奥村進之丞らが近隣を荒していたので、北畠氏が長島城を築城し、家臣加藤甚左衛門を城主として派遣したという。
応永2年(1395年)奥村氏は尾鷲・長島にむかって挙兵したので、加藤甚左衛門は尾鷲でこれを迎え撃ったが内通者がいて敗れ、甚左衛門は自刃して果てた。
天正3年(1575年)織田信雄に仕えていた加藤甚五郎が城主となって長島城に戻り、翌天正4年(1576年)北紀伊に及んでいた新宮の堀内氏善の勢力を駆逐しようと、信雄は加藤甚五郎・奥村氏に命じ、一時は三木城を攻め落としたが奥村氏が堀内氏に寝返った為に敗れ甚五郎は長島城に戻った。奥村氏は長島城の風上より火を放ちそれが城に及んで甚五郎は城腰山麓で自刃し落城した。
長島城は赤羽川と江ノ浦の間にある海へ突き出した丘陵の頂部に築かれている。
太平洋戦争の時に軍事監視所が置かれていたので山上は改変を受けている可能性が有るが、東西に二段の削平地がある。西側の側面に連続竪堀が残っている。
南麓にある長島神社の脇から遊歩道が城址まで続いている。
最寄り駅(直線距離)