神亀年間(767年〜770年)に鎮府将軍大野東人が蝦夷に対する備えとして「金城」あるいは「貴船城」と呼ばれる城砦を築いたのがその始まりとされるが定かではない。
長享2年(1488年)小弓公方足利氏の家臣中野城主酒井定隆が土気城を築いて土気酒井氏の居城となった。 酒井氏の出自は土岐氏の庶流、あるいは藤原秀郷流波多野松田氏の後裔など諸説あって定かではない。
天文7年(1538年)小弓公方足利義明が没すると、後に土気酒井氏は東金酒井氏らとともに北条氏に属した。永禄4年(1561年)上杉政虎(謙信)が越山して関東に出陣すると、北条氏を離反して上杉氏に属したが、政虎が越後に戻ると再び北条氏に属した。 永禄7年(1564年)国府台合戦で酒井胤治は北条氏を離反して里見氏に付いた。しかし翌年北条氏政の軍勢によって土気城は包囲され、酒井氏は里見氏に援軍を要請したが援軍を得ることはできなかった。天正4年(1576年)酒井氏は再び北条氏に属し、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏とともに滅亡した。
土気城は比高50m程の台地の上に築かれている。 本丸・二ノ丸に相当する「実城」・「善勝寺曲輪」・「二ノ曲輪」が日本航空研修センターの敷地(今はひまわりの郷?)になっており、立ち入りできないような雰囲気でどれほどの遺構が残っているのかはわからない。
土気城の案内板が三ノ丸の畑脇に立てられており、北の二ノ曲輪との間にある深い空堀は良好に残る。南の馬出曲輪との間にも空堀と土塁が残りここに貴船城の石碑がある。全体的に縄張りは良好に確認できるようである。
土気町にある善勝寺を目指していくと階段の登り口の所に北に入る道があり、その突き当たりを右へ曲がり道なりに行くと案内板がある。
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