築城年代は定かではないが武田信興によって築かれたと云われる。 真里谷武田信興が峰上城を築き、弟信武を城主としたという。
天文3年(1534年)真里谷武田氏は家督をめぐる内訌が起こり、武田信隆とその弟信応を推す一派で争われた。小弓公方足利義明の支持を得た信応が家督を継いで真里谷城主となると、信隆は峰上城などに籠もって小田原北条氏に支援を頼んだが、天文6年(1537年)足利義明、武田信応らの軍勢に峰上城を攻められ降伏開城した。
その後、武田信応の後見人とされる真里谷全芳に峰上城が渡された。
峰上城は環小学校の南方に聳える標高130m程の山に築かれている。 この辺りの山に共通する地質なのか、岩盤が垂直に切り立っており、この城も例外ではなく切岸は垂直に近い岩盤となっている部分が多い。むやみに切岸を降りると大変な事になるので、見学の際は十分注意が必要である。
城は南北に細長く伸びた尾根を中心とし、城内で最も高い位置にある「天神」と称される部分に環神社が祀られている。この環神社の鰐口に天文2年(1533年)の銘が残る。
天神から北へ本城、中城、大門などの地名が続き、西に尾崎郭などがある。中城の辺りに民家や畑がある。
峰上城の最大の特徴とされるのが、南東の尾根に残る「七ツ堀切」で岩盤を垂直にぶった切った巨大な堀切が七条続いている。この七つ堀切は天神のすぐ下から始まるのだが、ここへ行くには畑として開墾されている中城の南東隅から続く山道をたどっていけば良い。
西の尾崎丸の方には殿井戸などがあるが、湿地帯となっていたため途中で断念した。
城内に民家がありそこまで車道が通じているが、道は狭く駐車スペースもないので歩いて登るのが良い。北の麓にある小公園(地図)に案内板が設置されており、この辺りに駐車して登った。
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