築城年代は定かではないが長享2年(1488年)以前に富樫氏によって築かれたと云われる。
富樫政親は加賀国守護であったが、次第に強力になる一向一揆に危機感を募らせ、将軍足利義尚に支援を要請して一向一揆に対抗しようとした。一向一揆方は政親の家老山川三河守を介して和睦を伝えたが、政親はこれを固持し高尾城を修築して備えた。 一揆方は越前・越中からの政親方の援軍に対する備えを行い、富樫泰高を大将として大乗寺に本陣を据えて高尾城を大軍で包囲した。政親は城内より討って出て一揆勢と戦ったが打開することはできず、頼みの援軍も加賀国境で一揆軍に退けられ政親は城内で自刃して果てたという。一説に高尾城から脱出して鞍ヶ嶽城に入ったが、そこで敗れて討死したとも伝えられる。
城址は「ジョウヤマ」と呼ばれた山に築かれていたが、北陸道建設の際の土取りによって壊滅的に破壊され、現在は石川県教育センターが建っている。
南背後に「コジョウ」と呼ばれる山があり、山頂に単郭の城が残っている。 2007年に訪れた時は何も整備されていなかったのだが、今回改めて遺構を確認しようと訪れた所、「見晴らし台」として北西側の尾根先部分が公園になっていた。主郭部分は竹藪の中だが、整備しようとしているのか、竹を並べて道らしくしようとしている。
石川県教育センターの駐車場のあたりから見晴らし台への道がついている。
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