康安元年・正平16年(1361年)畠山国清によって築かれたと云われる。
畠山国清は鎌倉公方足利基氏を補佐して伊豆国守護となり、延文4年・正平14年(1359年)には関東武士を率いて上洛し南朝方勢力と戦ったが、康安元年・正平16年(1361年)に失脚して追放された。
追放された畠山国清はかつて守護職にあった伊豆国へ下って挙兵、二人の弟を三津城と金山城に置き、自身は修善寺城を築いて本城とした。足利基氏は関八州の兵を集め安保泰規・波多野高道・岩松直国らを将として伊豆へ攻めいった。これに対して畠山氏が頼みとしていた伊豆の諸将は畠山氏に味方するものが少なく、頼みの狩野介も味方にできなかった。これによって畠山氏は三津城と金山城を自ら焼き払い本城である修善寺城に兵を集めて足利軍を迎え撃ったが、十ヶ月におよぶ籠城戦の末、兵糧が尽きて国清は足利基氏の降伏勧告を受け降服した。
修善寺城は狩野川と桂川に挟まれた標高248mの城山山頂に築かれていた。
修善寺城のある城山は現在は無線中継施設が建っているが、以前にはロープウェイがあり小動物園などが設けられて公園化されていたようである。それによるものか、山頂を中心として北東から南西に向かって段々と続く平地にはコンクリートの基礎部分の残骸などがあり、遺構と区別が難しい。山頂の主郭部には畠山国清の古戦場の碑と石組みの井戸がある。
南の山腹にある城山神社から登山道がある。城山神社の参道はやや狭く、入口がわかりづらいが修善寺東小学校の西側からコンクリートの車道があり、終点に駐車できる。登山道は境内向かって左側にあり、最初につづら折りに登ると南西の尾根先から、道なりに登ると山腹の遊歩道で登ることができる。
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