築城年代は定かではない。伊東氏四十八城の一つに数えられた富田城と推測されており、城主は湯地五郎九郎(志摩介)という。
島津氏の所領となった後は新納近江守武久が城主となった。
富田城は上ノ城と呼ばれ、東へ伸びた丘陵に築かれている。東にある下ノ城は出城と考えられている。
東西350m程の規模を誇る。『宮崎県中世城館跡緊急分布調査報告書』によれば西の最高所が主郭で切岸が高く壮観であるとしている。残念ながら降雨のため、主郭部付近のみ散策しようと北側の農道沿いに歩いてみたのだが、竹藪が荒廃しており、カッパを着て不自由な状態で山へ取り付くのは簡単にはいかないようなので断念した。下ノ城の遺構が良かっただけに、また機会があれば訪れたい。