築城年代は定かではないが治承年間から文治年間(1177年〜1190年)頃に源披によって築かれたと云われる。 源披は松浦党の祖源久の孫にあたり、この一帯を領して築城したが、子の源持の時代に平戸へ移った為、廃城となったという。
戦国時代には日在城主鶴田兵部大輔直(ただす)の弟、鶴田兵庫介前(すすむ)によって再建されたが、文禄の役で波多氏が改易となり、鶴田氏は多久氏に仕えて移り廃城となった。
波多氏が改易となると寺沢氏が入部し唐津城を居城としたが、このとき獅子ヶ城も支城として整備された。このときに現在みられるような総石垣造りの城となったと推測される。元和の一国一城令の頃に廃城となったと推測される。
獅子ヶ城は標高200m程の山に築かれている。現在は県指定史跡として駐車場や遊歩道が整備されている。
比高100m程の山であるが、その周囲は切り立った岩肌に囲まれ見るからに天然の要害となっている。
山腹にある駐車場から更に切り立った岩山の間を登ると主郭部に達する。西の山頂部に本丸があり東下に井戸曲輪、東に二の丸がありそれを取り囲むように三の丸がある。本丸の南下には一の曲輪、二の曲輪がある。これらの曲輪群はほぼ石垣によって覆われ、一部は天然の垂直の岩壁となっている。
本丸は北西と南東に虎口があり、南東虎口はスロープとなって井戸曲輪から三の丸へと続いている。二の丸は周囲を天然の岩で囲まれており、登れる場所は限られ北側にある大きな木の根を使って登る事ができる。この二の丸を囲むように三の丸があり、東に虎口がある。一の曲輪、二の曲輪は本丸の南下で西端や南に櫓台が確認できる。
駐車場から東へ降りた所にあるのが出丸で、ここも石垣が用いられているが曲輪の規模は小さい。南側に石垣の段があり、一条の竪堀が長く伸びている。東の鞍部は堀切とされるが天然の鞍部を利用した物である。
南の県道沿いに入口があり、そこから山腹にある駐車場まで車道が付いている。
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