築城年代は定かではないが南北朝時代頃に千葉氏によって築かれたと云われる。
千葉氏は桓武平氏で下総国に住し、代々千葉介を称して千葉氏を名乗った一族で、千葉常胤が源頼朝の挙兵や奥州合戦で戦功を挙げ、肥前国晴気荘を与えられた。千葉頼胤のとき、元寇で九州へ下向したが討死し嫡男の宗胤も下向した。この宗胤の次男千葉胤泰が肥前千葉氏の祖となった。
肥前千葉氏は小城・佐賀・杵島三郡に及ぶ勢力を振るったが、文明年間(1469年〜1487年)頃には千葉氏は内訌により分裂、少弐氏に属した晴気城の千葉胤資と大内氏に属した千葉城の千葉興常が敵対した。明応6年(1497年)大内義興は少弐政資を攻めると筑前を破棄した政資は晴気城へ逃れたが、さらに追い立てられ政資と千葉胤資は滅亡した。これによって千葉興常は肥前守護代に任ぜられた。
大内義隆が討たれ、龍造寺隆信が台頭してくると千葉氏はその支配に組み込まれるようになる。龍造寺隆信が有馬・島津連合軍と戦って敗死すると鍋島直茂が執政となり、近世佐賀藩の家臣として千葉氏は続いた。
千葉城は祇園川に面して西へ伸びた標高134mの城山に築かれている。山腹にある圓明寺には元徳2年(1330年)に千葉胤貞が本尊として安置した木造地蔵菩薩半跏像(県指定重要文化財)が伝えられる。
主郭は城山山頂にあったようであるが、現在は無線中継施設や金毘羅社が祀られている。以前に重機によって削平されたようで、現在残る平段がそのまま曲輪ではないようであるが、東西に大きな段が数段ある。北下には帯曲輪があり、東西200m程である。山頂西端からは馬蹄形の段が続き高い切岸になっている。
主郭部から東の峰に向かう鞍部に堀切があり、その上の峰には山頂部から北に向かって数条の畝状竪堀群がある。竪堀の起点は通常山腹にあるが、ここの遺構は山頂部から始まっており非常に珍しい。また南には西端の一条のみ竪堀がある。
西の山腹にある標高93mの所は千葉公園になっており、ここに千葉城に関する案内板が設置されている。この部分が中山、更に西下の須賀神社の部分が小山でともに千葉城の城域に含まれるという。
圓明寺から上に登ると交差点があり、左(西)へ行くと千葉公園、直進(北)すると山頂へ至る林道となる。千葉公園には駐車場があり、山頂にも一応、車を駐めるスペースはある。
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