築城年代は定かではない。 文明年間から明応年間(1469年〜1501年)頃には名和氏の家臣東右衛門が城代で、天文19年(1550年)から天正8年(1580年)には阿蘇氏の家臣中村惟冬が城代であったという。
天正8年(1580年)北上する島津氏の新納忠之・鎌田行幸の軍勢が攻め寄せ落城、中村惟冬一族は討死したという。その後は宇土城の支城として加悦三浦が城主になったという。
城は南西に延びた丘陵の先に築かれている。 何故か手持のガーミンのgpsでは半島にある「青海苑」の地が城址とされているので行ってみたのだがどうやら違う。
国道266号線から矢崎の集落内へ入って行くと「矢崎城主中村伯耆守惟冬 以下勇士の碑」という道標を発見。 付近の方に話を伺った所、この辺りは既に矢崎城域で、奥方が住んでいたとされる「ソノ」、「カラボ」(おそらく空堀の訛)などの名称が残されているとのこと。主郭への道を聞いていざ行ってみると一部が畑となって雑草で埋もれた石碑を発見した。
この主郭の北側には空堀が残っていたが、もう一条南側に空堀があったという。