築城年代は定かではない。 天文年間(1532年〜1555年)には阿蘇氏の家臣辺春盛道が城主であったと伝えられている。 島津氏が侵攻すると盛道は内牧城へたて籠って防戦したが、支えきれずに自刃したという。
加藤清正が北肥後に入部すると家臣加藤可重を城代、ついで正方が城代となったが、この頃に近世城郭に改修されたと云われる。 しかし、元和2年一国一城令によって廃城となった。
その後、肥後に入部した細川氏は参勤交代の宿駅として利用し、内牧御茶屋と称された。
現在本丸には市民体育館が建ち、二の丸は公園となっている。 この辺りには逆s字状に水堀跡が残り、二の丸の南側の道路沿いに石垣が残されている。
本丸周辺と公園を散策したが、内牧城に関する案内は二の丸石垣付近の標柱しか見当たらなかった。